【白鯨 (ハーマン・メルヴィル)】
【白鯨 (ハーマン・メルヴィル)】
2016年に「白鯨との闘い」が映画化されたこともあり、名前を聞いたことがある人はいるだろうが「白鯨」を読み切った人はどのくらいいるのだろう。
和訳が古いせいもあるが、内容が非常に男臭く、ひとつ話が進むごとに入る鯨の説明、最後の最後までなかなか姿を現さないモビィ・ディックに思わず挫折し、本を閉じてしまいたくなるような本で、わたしは和訳の読みにくさに3度も訳者の違う本を購入し、大学の4年間を費やした。
とはいえ、世界十大小説として名高い作品。
すべてを読み終えたときの恍惚感が延々と残る。
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時は19世紀後半。
物語の進行をするのは語り手であり鯨オタクのイシュメール。彼は捕鯨船に乗るために大捕鯨基地・アメリカ東部のナンタケットを訪れ、インディアンで銛打ちのクイークェグと出会う。二人は予言者の言葉を聞き流し、捕鯨船ピークォド号に乗り込むことになる。
二人が乗ったピークォド号船長のエイハブは、モビィ・ディックと呼ばれる白いマッコウクジラに片足を食いちぎられて以降、自身の片足を奪った「白鯨」に対する復讐心で海に出て、報復に執念を燃やす狂気で船員とともにモビィ・ディックへの報復を誓う。
「白鯨を追跡するというおぬしらの誓いに、おぬしらもしばられておるのだぞ。この老いぼれのエイハブは身もこころも、魂も肺臓も、そして生命(いのち)そのものも、その誓いにがんじがらめにしばられておる。」(八木敏雄訳『白鯨』岩波文庫 下巻253頁)
ピークォド号は、狂気のエイハブ船長をはじめ、エイハブと対比的な一等航海士スターバック、楽観的な二等航海士のスタッブ、三等航海士フラスク、銛打ちとして黒人やインディアン、そしてイシュメールが乗っており、多様な人種、多様な文化が入り乱れ、アメリカ合衆国のような船だ。
本書の終盤にてようやく、ピークォド号は太平洋でモビィ・ディックを発見し、追跡する。白鯨と死闘の末にエイハブは海底に引きずり込まれ、白鯨の攻撃によってピークォド号も船員とともに沈没する。イシュメールのみが生き残り、救命ブイにつかまり漂流していたところを他の捕鯨船に救出される。
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本書は作者であるハーマン・メルヴィルのキリスト教的思想が影響しており、登場人物は全員、信仰を持っている。イシュメールをはじめとする大半の人物はキリスト教とであり、クィークェグにも自信の進行する神があり独特の儀式を行う描写がある。
エイハブ船長の名前は旧約聖書に登場する神を捨てたイスラエルの王アハブがもとになっている。「アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。」(第一列王記16章)神を怒らし、神を恐れぬ人間として執拗なまでに白鯨に対する復讐心を燃やし、自らも縛りつけた生き方をする。
年代的に見ても19世紀後半はニーチェが「神は死んだ」と唱えた時期であるため、キリスト教の信仰心の薄れや疑問を現しているかのようにも考えられる。
また、主人公イシュメールの名の由来はアブラハムの子供イシュマエル。
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物語は、イシュメールの鯨の説明から始まり、上巻の後半にてようやく捕鯨船に乗ることになる。
見どころというか、最も目をひかれるのは物語に出てくる料理たち。
・小型だが多肉質のふとったハマグリに、くだいたビスケットと、潮豚の薄切りをまぜ、バターをたっぷりとかしこんでこくをつけ、塩と胡椒をしっかりきかせた逸品
・捕れたて鯨肉のステーキ
・鯨油で揚げた揚げパン
どれも文字を読んでいるだけなのに、美味しそうな香りが脳をよぎる。
内容はとにかく男臭く、男だけの群集劇とでもいうべきか、登場人物の人間性の統一感のなさが劇を進め、次第にエイハブの憎悪を中心にまとまっていく様が見物だ。
ラストの海底へと引きずり込まれるシーンでは、今までにない迫力とむなしさが漂う。
回り道の多い本書ではあるが、読み進めていくことで鯨に関する知識が身についたり、捕鯨時代に思いをはせたりと、読みごたえは十分にある。
読み終えた後には、ぜひ「白鯨との闘い」も一見いただきたい。